オーストラリアを知ろう② オーストラリアの歴史~移民や先住民の迫害~
どうも!オーストラリアにワーホリ中のくろやんです!
今回はオーストラリアの歴史について簡単に紹介しようと思います。
オーストラリアが歴史の表舞台に立つのは18世紀頃からになります。ヨーロッパの探検家がオーストラリア大陸を発見・上陸した辺りから歴史が大きく変わります。
そして、オーストラリアはその後移民が大量に流入していくことになります。一方、先住民たちは迫害を受け続けることになります。
そんなオーストラリアの歴史を見ていきましょう。
オーストラリアの歴史をさらっと
主な出来事の年表
抑えておくべき出来事を年表にしてみました。
1770年 イギリス探検家クックがボタニー湾(シドニー)に上陸
1788年 イギリスがオーストラリアを植民地とし、政府を樹立
1827年 イギリスがオーストラリア全土を植民地化
1851年 金鉱の発見によるゴールドラッシュが始まる
1901年 オーストラリア連邦の成立による事実上の独立
1914年 第一次世界大戦への参戦
1941年 第二次世界大戦への参戦
2000年 シドニーオリンピック開催
代表的な出来事はこんな感じです。
これらの出来事はオーストラリアという国を理解する上で重要なものです。
詳しく見ていきましょう。
オーストラリアの歴史
先住民のオーストラリア定住
オーストラリアは氷河期には北方のインドネシアの島々と陸続きであり、アジアと繋がっていました。
先住民たちはこのアジアから現在のオーストラリアに移動し、その後アジア大陸と隔絶され独自の文化を歩んでいくことになります。
ヨーロッパ人が入植するまで、オーストラリアの歴史が詳しく語られないのは先住民たちが文字を持たなかったためです。
そのため研究のための資料が、壁画や伝承などに頼るしかなかったのですね。
加えて、オーストラリア周辺に高度な文明を持つ国がなく、オーストラリア大陸に関する記述資料もほとんど無かったということも理由のひとつです。
ヨーロッパ人のオーストラリア発見
大航海時代から徐々にオーストラリア大陸の存在が確認され始めてきてはいましたが、彼らの航海の最大の目的である香辛料を見つけることが出来ず、入植に至ることはなかったそうです。
そして時はさらに進み、1770年にイギリスの探検家ジェームス・クックが現在のシドニーのボタニー湾に上陸し、歴史が始まります。
クックは大陸の東側一帯をニューサウスウェールズと名付け、イギリスの領土と宣言します。
ちなみに、当時のニューサウスウェールズ州は、クイーンズランド州、ビクトリア州、タスマニア州も含めた広範囲にわたり、オーストラリア大陸の東側半分にあたります。
その後徐々に開拓が進み、1827年にはオーストラリア全土がイギリスの植民地となります。
金鉱発見によるゴールドラッシュの始まり
当初のオーストラリアは流刑地としてイギリス本土の囚人を送り込む目的で移住させられていましたが、その状況が大きく変わるのが金鉱発見によるゴールドラッシュです。
1851年にエドワード・ハーグレイヴスが金鉱を発見します。その後各地で次々と金が発見され、人々は金を求めてオーストラリアに渡ってきます。
一足先にゴールドラッシュが始まっていたアメリカに比べても人口増加がすさまじく、1850年代には約40万人ほどしかいなかった人口が1860年代には約120万人と3倍に膨れ上がりました。
その移民の中心になったのが、地理的にも近い中国人でした。オーストラリアの移民の国としての歴史はこのあたりから大きく動き出すことになります。
連邦制の成立と二度の大戦
1890年代の不況をもとに、オーストラリア国内の各植民地の結びつきが強まり、次第に連邦憲法制定に向けた動きが強まります。
その中で本国イギリスは1900年にオーストラリア憲法令を可決し、翌年1901年にオーストラリア連邦が成立します。これによりオーストラリアは内政自治権を獲得します。外交権などはイギリスにまだありましたが、実質的な独立を果たしたことになります。
イギリスとの関係は依然強く、第一次世界大戦と第二次世界大戦ではイギリスと共に連合国側に付いて参戦することになります。
第一次世界大戦ではニュージーランドとともにANZACという軍事合同組織を結成し戦うことになり、オスマン帝国との戦いの中で起きたガリポリ半島上陸作戦の決行日である4月25日はANZAC Dayという祝日になっています。
第二次世界大戦では同じく連合国側で参戦しますが、日本との戦いの中で北部のダーウィンを空襲されたり、シドニー湾を攻撃されたりしています。
「ミドル・パワー」としての国づくりと多文化主義
戦後、イギリスの国力の低下によりイギリスとの結びつきが弱まり、環太平洋地域との結びつきが強まります。共産主義と資本主義の冷戦対立下では共産主義勢力に脅威を抱き警戒しながらも、良好な関係を徐々に築いていきます。
そして、「ミドル・パワー」という、小国でも大国でもない独自の外交戦略を歩んでいきます。
一方、日本を含む環太平洋地域との関係が深まっていく中で移民政策を積極的に取り組み、他民族国家・多文化国家としてのオーストラリアが形作られてきます。
この動きは今日まで続くことになります。
先住民・移民への迫害の歴史
今もなお残る人種差別思想
オーストラリアの歴史を語るうえで先住民や移民への迫害の歴史を忘れるわけにはいきません。白豪主義と呼ばれる白人優位思想は現在の多文化主義の中で薄れてきてはいますが、依然として残っています。
シドニーなどの大都市ではそこまで感じませんが、地方都市に行くと未だに非白人人種に対しての差別があるという話も聞きます。
日本人としてオーストラリアで生活していくうえで、これらの歴史の背景を知っておく必要があると思います。
先住民の迫害
イギリスがオーストラリアを植民地と宣言した1788年の12年前の1776年にはアメリカがイギリスから独立しています。
当時のイギリスはエンクロージャーや産業革命により失業した労働者が大都市に集まり犯罪が多発していました。
イギリスはアメリカを囚人たちの流刑地としていたわけですが、その流刑地を喪失したため新たな流刑地の確保が重要課題でした。
そこでアメリカの代わりの流刑地となったのがオーストラリアです。
多くの囚人がオーストラリアにわたり、土地の開拓や資源獲得などが行われていく中で、先住民への迫害が始まっていきます。
流刑囚によってスポーツハンティングと称した先住民狩りまで行われ、「今日はアボリジニ狩りをして17匹殺した」という信じられない日記まであります。
その他、ヨーロッパ人が持ち込んだ伝染病はこれまで独自の生活圏で生活をしていた先住民にとって、全く免疫を持たない病であったため、伝染病により亡くなる人も多くいました。ヨーロッパ人の入植前には50~100万人いた先住民は1920年代には約7万人にまで激減することになります。
大量移民と白豪主義の台頭
1851年の金鉱発見により始まったゴールドラッシュは多くの移民をオーストラリアに流入させることになります。
なかでも地理的にも近い中国人をはじめとするアジア人の大量流入により、失業の危機感を持ったヨーロッパ人はこれらの移民に対して様々な抑圧をかけていくようになり、同時に白人優位思想である白豪主義を生むことになります。
最初の移民の抑制は語学試験。
試験官が読み上げるヨーロッパ言語を書きとるという試験で、不合格になると入国ができないというものです。これによりまず非欧米系が排除されます。
それに並行して、クイーンズランド州では1877年に「中国人移民制限法」、ニューサウスウェールズ州では1896年に「有色人種制限及び取締法」が成立します。
実はオーストラリアは世界で初めて人種差別を国の政策として法制化を進めた国なのです。
戦後の多文化主義
第二次世界大戦後、旧宗主国であるイギリスは国力が低下し、さらにEC(現EU)の加盟によりヨーロッパ諸国との関係を重視し始めたことから、オーストラリアとの関係が薄れてきました。
地理的な要因から政治的にも経済的にもアジア諸国との結びつきが強くなり、従来の白豪主義に起因する人種差別政策は撤回せざるを得なくなります。
オーストラリアは現在でもこの多文化主義にもと多くの移民を受け入れています。アジアにとどまらず、南米やその他の地域からも積極的な移民を受け入れ、人口はいまでも増え続けています。とくに大都市圏の人口増加は顕著で今後もしばらくは増加していくと予想されます。
未だに残る白人優位思想
多文化主義への転換により、白豪主義の考え方が無くなったかと言うとそうではありません。未だに一部の人間や社会では白人優位思想があり、移民に対する差別的な発言や行動が見られます。
わい自身はまだ経験はありませんが、知り合いの日本人は差別的な暴言を吐かれたことがあるようです。
日本人に対する差別は比較的少ないと言われていますが、未だにこういった思想が残っているのは確かです。同時に、先住民に対する差別的な思想が残ってもいます。
まとめ
オーストラリアの歴史は移民と迫害の歴史です。
日本のように、単一の民族が長い時間をかけて歴史や文化を育んできた背景とは大きく異なります。
移民国家にはその移民たちの独自のアイデンティティが存在し、それらが混在する中で様々な問題が発生し、それらを解決してきた歴史があります。
日本人としては異なる人種や言語が混在する社会というのは慣れないものなのです。
しかし、今日では日本には多くの外国人観光客が訪れており、また主にアジアからの技術訓練労働者や留学生の数は年々増加しています。
一部ではそういった研修生に対する虐待や差別的な発言が問題になっています。
大事なのはその国の文化や歴史を学び理解することで、様々な偏見を取り除き互いに理解し合える関係を構築していくことだと思います。
オーストラリアが作ってきた歴史は今後のグローバリズムの中で異なる人種間の良好な関係を気づくための大きな教訓ですね。